1.栄光って何?
・皆さん、高校野球はお好きですか?最近なんとなくテレビをつけると、早稲田実業高校の斉藤選手の話題でもちきりですね。駒大苫小牧高校との決勝シーンの優勝の瞬間をみて、「栄光」という言葉が思い浮かびました。さっそく、栄光と言う言葉を国語辞典で引いてみました。「困難を突破して余人の為し得ない事を為し遂げた時の輝かしい状態。」まさに、栄光の優勝でした。そのように普通私たちの思い描く“栄光”とは、大勢の人から「すばらしい!」と絶賛され拍手喝采を浴びる、あるいは偉い人から才能が認められる・・・そんな誇らしい姿です。
・皆さんご存知のように、聖書にも“栄光”という言葉が数多くでてきます。聖書で語られる「栄光」は、主(おも)に神の顕現と神への讃美に用いられます。そして、イエス・キリストその方が「神の栄光の輝きであり、神の本質の真の姿(ヘブル1:3 口語訳)」として語られます。そして聖書は一貫して、栄光とは本来、神のものであること、神の本質のあらわれであって神に帰するべきものであることを表現しています。この神の栄光。イエス・キリストの栄光。それは私達にとって何を意味するのでしょうか?
・今から約2000年前、イエス様が捕らえられる前の晩のことです。弟子達と一緒に最後の食事をとります。最後の晩餐です。この時イエス様は弟子達に多くのことを教え、お別れの言葉を述べられます。弟子達に語り終えると今度は・・・目を天に向け「父よ!・・・」と神の子としての全信頼をもって祈り始めます。これがヨハネによる福音書17:1から続く今日の御言葉です。「父よ、時が来ました!」イエス様は宣言されます。この「時」とは栄光が現れる時です。このイエス様の祈りの言葉を背景に、今から3つの栄光の事を皆さんとご一緒に考えてみたいと思います。
2.三つの栄光
・まず一つ目の栄光は、イエス様の地上における栄光です。17:4には、「わたしは、行うようにとあなたがあたえてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」とあります。この時までイエス様が現してきた栄光とは、地上における、父なる神の栄光の現れです。イエス様が地上でなさった業とはなんでしょう。卑しいと蔑まれている人・罪を犯して悩み打ちひしがれている人・重い病気を持つ人・・・そのような誰も近寄らない、当時の社会からツマハジキされたような人と親しくされ友となられた。病を癒し、悪霊に悩む人を助けられた。徹底して人に仕え、召使いのようになって弟子達の足を洗い神の愛を示された。これがイエス様の地上における、神の栄光の現れです。人の思い描く栄光とは、どこかかけ離れていることに気づきます。
・さて、イエス様の祈っておられた時、その声を耳にした弟子達がここにいます。2つ目の栄光とは、弟子達の思い描いた栄光です。弟子達は3年間ずっとイエス様に従い、生活を共にしてきました。イエス様のすぐ傍にいて、その教え・奇跡・そして愛を目の前で体験し実感した彼らでした。その彼らは、イエス様から受難の予告(ご自身が捕まって十字架で死を遂げるであろうという予告)を聞くだけで落胆します。「主よ!とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。(マタイ16:22)」弟子の一人ペテロの文句です。イエス様をとがめようとさえしたのです。彼らがそれまで、期待していたイエス・キリストの栄光とは、ローマの支配から今自分達を解放してくれる、強くて勇ましいユダヤ人の王、地上的救い主の栄光だったのです。いよいよイエス様が捕らえられて、絶望の底に突き落とされた彼らは「自分達も捕まってしまうのではないか!」不安に襲われ怯えたあげく、イエス様を独り残して裏切り逃げさるのです。しかしイエス様は、彼らが裏切るであろうことはすでに知っておられ、予告されます。16:32前半、「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時がくる。いや、既に来ている・・・。」と。そしてイエス様は、この時こそが自らの栄光の時であることを、確信されておりました。17章1節と5節では「栄光を与えてください」と願われます。この時イエス様の願われた栄光とは、救い主キリストとしてのご自身の栄光を指します。父なる神様の御意思に完全に服従して、十字架にかけられ、死ぬことです。3つ目の栄光は、十字架の栄光です。
・弟子達はこの時、すぐ間近に迫っていた出来事に栄光を見出すことは出来ませんでした。前述のように、彼らの思い描く栄光とイエス様の確信する栄光とは食い違っていたからです。すぐ間近にせまっていた出来事。それは、罪けがれなき神のひとり子を「十字架につけてしまえ!」と激しくわめきたてる群集の叫びによって死刑が執行されるという、極めて異常な事態、平和無き状況です。イエス様が十字架にはりつけにされたのは金曜日の朝9時。そして昼の12時から3時まで太陽は光を失い、あたり一面暗くなりました。(マルコ15:33、マタイ27:45、ルカ23:44)真っ暗闇に包まれた中での出来事です。むしろ栄光を失った・・・とさえ思える十字架上のイエス様。弱弱しく、悲惨で、残酷な、目を背けたくなるようなお姿が弟子達の目に映ります。そこに輝きも、尊厳も、喜びも、平和も、希望のかけらも見出すことは出来ない・・・そのような事態に弟子達は直面したのです。私達がもし、この現場に居合わせたら何を思ったでしょう?ここに栄光があらわされたと、誰が信じ得たのでしょうか?
3.十字架に栄光を見出す
・私達が十字架に栄光を見出すということは、どのようなことなのでしょうか?皆さんは、このイエス様の十字架に栄光を、いつどのように見出し確信されたのでしょうか?私のその時は、今から7年ほど前、挫折を覚えて困惑し窮地に追い詰められていた頃です。むしろ栄光という言葉とは程遠い、肉体的精神的弱さを思い知った暗闇の中でした。務めていた会社が突然倒産。おまけに失恋。焦りまくって新しい仕事を探しすぐに飛び込んだ職場でまた挫折。体調をくずして病気を繰り返しました。ある時、疲労とストレスが原因で目の病気を患ったことをきっかけに神学校に入ることを決めました。「この仕事を辞めさせてくれたら、何でもします!どこでも行きます!神学校でもどこでも行きますから!」という我がままな祈りとも言えないお願いを神様にしたからです。この我がままは聞き入れられました。半年後に退職し、次の職場が決まったと同時に東京バプテスト神学校へ入学し、学びが始まりました。ある講義内容の中で「共に苦しまれるインマヌエルの神」という言葉が私の胸に響きました。インマヌエルというのは、ヘブライ語で「神我らと共に」という意味です。今この苦しみ・痛みを知り、共に背負われている方が確かにおられる。十字架に向かったその方は、あらゆる苦しみと痛みを覚えられた。それは神。インマヌエルと呼ばれたお方。この方の十字架は、暗闇と思えるような状況の中でこそ光り輝いてはっきりと見出すことができる。この輝き、それを栄光というのかもしれない。ふと、思うことができました。
・私達の日常には問題が尽きません。学校でのいじめ。職場でのいじめ。人間関係のもつれ。誰かに言われた一言やその人の態度に、「侮辱を受けた。馬鹿にされた。」と、傷ついたショックからなかなか立ち直れない私達です。何年も、部屋から出られないで悩む方も私達は知っています。事業の失敗。経済的困窮。愛する家族の重い病・そして死・・・私たちが、このような窮地に追いこまれる事態に直面していたら、何が必要と願うでしょう。それは今目の前に横たわっている問題の早急な解決策です。でもこれ以上状況が良くならない、解決不可能な問題があります。また、たとえ今抱えている問題が解決したとしても、またいつ新たな問題がやってくるかわかりません。不安です。
・17:5には「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとでもっていたあの栄光を。」とあります。世界の創造以前からイエス様の栄光は存在します。栄光とは本来、神のものであり神の本質のあらわれ、神に帰するべきものなのです。イエス様は栄光そのものです。私達は、どのような問題を抱えていようとも、栄光なるイエス様が今、共におられる、この事実を確信しなければなりません。イエス様の十字架はまさに苦しみそのものであり耐えがたい痛みでありました。私達の身代わりとなって、人間の姿・肉体をもって、あらゆる苦難・恥辱・屈辱・肉体的精神的苦痛・疲労・悲しみ・孤独・・・暗闇の中を通ってこられたのです。このイエス様は、あなたのその耐え難い何かを覚え、痛み・苦しみを共に背負われるインマヌエルの神です!この福音。私達はここに、まことの平和・まことの平安を得るのです。暗闇の中に光を、苦しみの中にイエス・キリストの十字架の栄光を仰ぎ見ます。
・イエス様の十字架に栄光を見出した私達に待っているのは何でしょう?それは希望です。17:2「子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」イエス様の十字架の死は、私達に永遠の命を与えることを意味する、と聖書は言います。イエス様の十字架に栄光を見出した私達には、永遠の命への希望が与えられるのです。永遠とは私達の創造をはるかに超える神様の次元です。宇宙万物を想像され時をも造られそれを支配されている神、始めも終わりもなく無限に存在する神、その神様と私達が永遠に和解できるように・・・・その神様にとって「あなたは生きている!」と、神との関係の中で、神の内に、私達が永遠に生かされること・・・そのことの為に、イエス様は十字架にのぞまれたのです。17:3には、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」とあります。「知る」ということは、人格的に、全身全霊を持って受け入れることを意味します。イエス様は「わたしは道、真理、命。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(14:6)」と言われます。唯一のまことの神を知るには、イエス・キリストを通らなければならない。ですから、ここで言う「知る」とは、イエス様の十字架の死、そこに現された栄光は「私を救うためのものであった」と自分のものとして受け入れることです。そしてこの知ることそのものが、私たちにとって永遠の命を意味するのです。
・今日の招詞はマルコによる福音書15:33−34です。次の御言葉です。「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは、『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。』という意味である。」 罪に悩みうちひしがれる私達に代わってイエス様は十字架上で叫ばれたのです。十字架は当時、最も屈辱的な処刑法、恥と嫌悪を意味しました。ガラテヤの信徒への手紙3:13に「木にかけられた者は皆呪われている。」とあります。神から呪われた者として罪人の一人と数えられたのです。父なる神から呪われ見捨てられる。イエス様にとって、これ以上の耐え難い苦しみはなかったはずです。罪けがれなきイエス様をここまで追いつめる十字架とは、人間が神の子に対してなし得る最大の罪でありました。そしてそこに見られるのは私たちの罪であります。人間の罪がイエス様を十字架につけて殺したのです。この罪は、赦されました。この罪はあがなわれました。贖いのもともとの意味は、代価を支払って買い戻すということですから、神様は私たちに永遠の命を与えてご自分のもとに私達をとらえようとされています。でもそのためには私達人類の罪がゆるされなければなりません。その代価・犠牲がイエス様の十字架の死であったのです。これが十字架の栄光です
・イエス・キリストの栄光とは、まさに私たちの救いのためでありました。十字架に赴くことによって、神は人間のためになし得ないことは何もないのだ!苦しみ得ないことは何もないのだ!と、神の人類に対する愛は、際限のないことを証明されました。ご自身の栄光を、私たちに対する完全な愛として示されたのです。十字架にかかったイエス様は死からよみがえり、今あなたと共におられます。あなたが直面している、その耐え難い何かを覚え、痛み苦しみを共に背負われるインマヌエルの神です。この方にすべての望みをおく道が今私たちに開かれています。私を赦し私を癒し私を救うためであった十字架、そこに現されたイエス・キリストの栄光を、たとえどのような状況におかれたとしても確実に見出し、そして「神様にとってあなたは生きている!」・・・と、永遠に生かされることへの希望をもって1週間歩んでいきましょう。